50を過ぎたら
今まで以上に時間の経過が早くなる
ということは
ゆっくりしていると
すぐに70歳になり
気がつけば80歳を超えている
そうなってから準備しても
全く間に合わないので
今のうちに将来を考えて
準備をしておく
そして最後は
笑ってあの世に行く!
マジで分かっているのは
そんなに時間はないと言うこと!
それを痛感した今日この頃
ブログ責任者の
板坂裕治郎とは・・・
業界の常識をぶち破り、誰からも憧れられる
影響力を持った経営者を輩出する
これをビジョンに
NJE理論ブログという
オリジナルメソッドを全国でセミナー展開し
百発百中で彼らの人生を変えている
アホ社長再生プロモーター
それでは2021年8月29日(日)号
行ってみよう!
先日、オヤジを松山から
広島に連れて帰ってきた
オヤジはわしが2歳の時に
脱サラをして寿司屋となり
わしが18歳になる時まで
ずっと寿司屋をやっていた
ずっとカウンターの
立ちの寿司屋をやっていたけど
南区東雲という所でやっていたので
店で待ちの商売をするよりも
仕出し弁当を作って
市場に持って行く方が儲かると
ある時
寿司屋から
寿司弁当へとチェンジした
今ではなくなった
広島駅前の
愛友市場に
夜中弁当を作って
朝イチで配達していた
だから米の消費量も半端なく
こんな炊飯器で炊いていた
そこから出すお釜は
こんな感じ
これが2機もあって
ここで炊くお米は
寿司弁当にもなるし
わしらの食う
毎日の食事にもなっていた
なので
このデッカいお釜が
いつも寿司弁当を作る
作業台の真ん中におかれ
そこでわしら家族は
食事をしていたので
なので、中学生の時に
友達の家に泊まりに行って
こんなっちっちゃい
炊飯器を見たときには
声を出して驚いたのを覚えとる
そんなオヤジも
わしが18歳で
高校を卒業すると
その仕事から一切足を洗って
寿司ネタの会社
あじかん
という会社に
Uターンサラリーマンとなった
あじかんという会社も
寿司ネタの玉子を作る会社で
オヤジが寿司屋を始めた時からの付き合いで
その当時はあじかんの社長さんが
リアカーを引いて売りに来ていたらしい
その繋がりもあって
あじかんさんにお世話になり
松山の会社を買収したので
そこの会社の社長として松山に行った
そこから約30年
その間にお袋も亡くなり
オヤジ1人が松山で生活していた
まぁ~元々が寿司屋なので
飯を作ることは朝飯前
食うことに困らんかったら
男1人でも全然生きれる
っと
ずっと元気じゃったんじゃけど
ここ数年
ひざを悪くして
歩くたびに痛みが出るので
ドンドンと歩かなくなり
今では数メートル歩くのもやっと
そんな中で
先日風呂場の段差を踏み外して
大きくコケて胸を強打して
動けなくなってしまい
それでも電話をかけようと
電話のあるところまで
10時間くらいかけて移動して
兄貴に電話をしたみたい
そこから兄貴が
救急車を要請して
何とか助け出された
そんな一件があったので
こりゃ、そろそろ限界かもしれん
ということで
松山にはなんの
縁もゆかりもないので
とりあえず広島に連れて帰ってきた
この人の性格が
わしの乗り移っとるように
まぁ~細かいことは
全く気にせん人で
お袋が亡くなった後
断捨離じゃっていうて
何でもかんでも捨てまくって
お袋の思い出の品なんて
ほとんど捨ててしもうとったわ
なので引っ越しの荷物も
大きな家電をのけたら
軽のワンボックスで
済むくらいの荷物しかなかった
それにしても
身体が病気になるのも
大変なことじゃけど
身体は元気なのに
歩けないというのは
もっと情けない事じゃわ
彼には今の
パラリンピックの選手の人達を見て
頑張る気持ちになってもらいたいわ・・・
そんなおやじが82歳
まだまだ元気
でもこの状態で
あと10年も月日があるとしたら
生きているんだろう・・・
そう言った
オヤジの言葉が
重く感じてしまう
結局こうなってしまうと
金なんかいくらあってもしょうがない
大切なのは
心が充実していて
身体が健康なこと
これしかないな~
そう感じるし
このオヤジの姿を見て
そんなに遠い将来じゃない気がした
やっぱり身体は鍛えとかんといけん
そう感じた今日この頃です
わしも54歳
そろそろ終活も考えながら
身の振り方を考えんといけん
そんな事を
考えうようになってきた
最後が笑って終われるように・・・
今日は板坂家の話しで
何の学びもなかったらごめんね
今日は日曜日じゃけ許してね
ほんじゃまた